兄ちゃんが極楽に行ってもう六十五年になるね。その間俺はずっと心の中に残っている事が有って、兄ちゃんの墓参りをする時いつもその事を手を合わせて呟いてきたよ。
昭和十八年、兄ちゃんが福岡県久留米市の軍隊に入隊し、間もなく南方の戦地に移動するという連絡を受けて、お袋を許嫁の綾ちゃんと俺と三人で面会に行ったことがあったね。短時間だったけど兄ちゃんの嬉しそうな顔の中にどこか淋しそうな影が見られたのが今でも忘れられないよ。
思えばそれが最後になって「昭和十九年七月二十九日ビルマで戦死」の公報を受け取り、後日、白木の箱に納まった兄ちゃんを見た時は涙が溢れてどうしようもなかった。
五つ年上の兄ちゃんは俺が小さい時からよく可愛がってくれたね。兄ちゃんが小学校卒業後、故郷松島を出て長崎市の中学校に進学してからも、長期の休みには帰郷し一緒に遊んでくれたり、横浜専門学校在学中は俺を横浜まで呼んで東京や鎌倉に見物に連れて行ってくれたね。「本当にありがとう」。
しかし俺は兄ちゃんにもっともっと心の底から感謝したい事が有る。それは俺が三十才位の時「兄ちゃんの父親が俺の父と違う人」だということを、ある人から偶然聞いて初めてその事実を知った時、強いショックとともに感謝の気持ちが一層深まったんだ。
お袋が幼い姉兄を連れて父と再婚し俺が生まれた。そう言えば兄ちゃんが父に余り親しみを見せず、少し距離を置いていたのが後になって納得できたよ。でも兄ちゃんは俺にその事を一言も話したことはなく、何のわだかまりもなく俺を真から可愛がってくれたね。俺はそんな兄ちゃんの心中を察することもなく甘えてばかりいて本当にすまないと思う。
昭和三十二年、靖国神社に参拝し「兄ちゃんありがとう」を言ったけど、元気な内にもう一度行って心から「ありがとう」を言うよ。