父へ 60代 北海道 第4回 銀賞 広告掲載

父の決断
吉野 郁子 様 68歳

 父さんが逝って、もう二年になるのですね。この頃ようやく、あの当時を振り返る事が出来るようになりました。

思えば、母さんの認知症が酷くなったのは九十歳を過ぎた頃からでしたね。私達家族は誰も分からない所でボロボロでしたが、それよりも隣のベッドで父さんは、毎日どんな思いで母さんを見つめていたことか……。

そんな時でした。孫の春ちゃんが「もう在宅介護は無理だよ」と、一枚のパンフレットを持って来てくれたのです。最後まで我が家でと決めていた私にとって、考えてもみなかった「老人ホーム」。父さん、正直いって私ももう若くはなく、夫との定年後の人生を夢見て、心動かなかったと言えば嘘になってしまいます。悩んだ末「やめよう」そう決めた時、知らないはずの父さんが「俺がついて行くから心配するな」と、お腹の底から振り絞った声で二度も言ったのでしたね。年甲斐もなく泣きじゃくっている私の前で、父さんの決断はびくともしないものでした。その時、父さんは九十四歳。その歳にして大きな決断をした父さんの胸中を思うと、今でも涙が止まりません。

それから……父さんがホームで母さんと過ごしたのは、わずか二ヵ月……余りにあっけなく旅立ってしまいました。その日から、あの時の父さんの声だけが耳に残って離れずに「もし、やめていたら……」自分を苛むばかりの日々でした。でも母さんは、会いに行く度に驚くほど変わっていて、あの頃がまるで嘘であったかのように、穏やかにみんなと手を叩いて童謡を歌っているんですよ。そして、にっこり笑って私のこと「どちら様」なんて言うんです。

父さん、空の上から毎日ヒヤヒヤして私のこと見てたでしょうね。でも、もう大丈夫。母さんと私達のために、人生最後の大きな決断をしてくれた父さんの心を決して無駄にしてはいけないと、誓いました。

三回忌のお墓参りには、父さんの好物の羊羹(ようかん)を持って元気に会いに行きます。待っててくださいね。

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