一九五五年(昭和三十年)僕が中学生のときだった。幼いころ両親を亡くしていた僕は、母方の次男であった叔父の家で育てられていた。福岡筑豊炭田の街、飯塚市の炭鉱で、一番過酷な採炭夫として働いていた。ある日の健康診断で、繁兄ちゃん(僕は叔父のことを繁兄ちゃんと呼んでいた)は胸に影が見つかった。その為炭塵を吸う地下の重労働は出来ず、地上の守衛や雑務の軽い仕事に替わった。たちまち、減給になり幼い二人の子を抱えた繁兄ちゃん夫婦は路頭に迷った。
そんなある朝、僕の学校に持って行く弁当に詰めるご飯が、ときたまない日があった。そんなとき繁兄ちゃんの「昼までには必ず弁当届けるからな」という言葉を信じて家を出た。昼の学校の鐘が鳴ったが、その日は繁兄ちゃんの姿は見られなかった。僕は隣の子に「弁当忘れた。お腹が痛い」と言って席を立った。外に出た僕は、校舎の板壁にもたれて日向ぼっこをしたり、砂場に行って穴を掘り、木陰に座って想いにふけった。繁兄ちゃんが薬を飲んでいることは知っていた。
箪笥の中のズボンが、嫁の着物が一枚ずつ減っていくのも。繁兄ちゃんは、質屋に行ってお金の工面をしていたのだ。嫁は家族の為に、ヨイトマケ(建築現場で、地固めの時大勢で重い槌を滑車で上げ降ろしすること)の綱を引いていたのだ。足りない配給米を補うために。僕は家計を少しでもと思い、朝のみそ汁に入れる豆腐を首から吊した四角い木の箱に入れて炭住街を回った。焼け石に水であったが繁兄ちゃんは「無理するな学校で眠くなるから」と気をつかってくれていた。
繁兄ちゃんは、僕の弁当を届ける途中、田んぼのあぜ道で血を吐いて倒れたことを知らされた。親代わりになって僕をほんとうの弟のように可愛いがってくれたそれだけで、充分であったのに。繁兄ちゃんは弁当を握りしめ昼に間に合うように駆けたのであろう。
あれから六十余年、「無理するなよ」の言葉を支えに僕は生きて来た。
なぜ僕は「ありがとう」の一言が言えなかったのだろう。もっと、もっと繁兄ちゃんに感謝の心があらわせなかったのだろう。
八十歳になった僕の命を、今まで繋いでくれた繁兄やん。あのとき言えなかったありがとうを大空に向かって叫ぶのであった。