父へ 60代 東京都 第13回 銀賞

急須の思い出
田中 信之 様 64歳

 父さん、そちらの世界はいかがですか? こちらの世界は今コロナ禍で大騒ぎです。

昨日お茶を飲もうと急須を手に取った時、うっかり落とし壊してしまいました。それで子供の頃の父さんの言葉を思い出しペンをとりました。

小学二年生の時でしたね、私が母の大切にしていた急須を床に落とし割ってしまった時「急須だけに、万事休す」と冗談を言いながら「形あるものはすべて壊れる」気にするなと励ましてくれた。あの時は、怒った母の顔が一瞬に笑顔になった。父さんはよく冗談を言うのが好きでしたね。

父さんが亡くなってから、景気が悪くなって旅行の仕事は廃業したんです。と言うより、いつも隣の机でパソコン作業を手伝う父さんがいなくなって気力が無くなったことが本音かな。

会社を整理してそれからは、アルバイトをしながら生活しているんだけど、コロナ禍の影響で三ヶ月も自宅待機を余儀なくされていてね。この機会にと部屋のかたづけをしていたら、96と書かれた父さんの書いたメモ書きが出てきた。

小さな会社の自営業は金銭的にも毎日が苦労ばかり、そんな時、父さんがさりげなく書いたメモ。

その時の父は96という文字を読むと苦労だろ、上からも下からもどっちから読んでも苦労なんだよ。自分だけが苦労しているのではないぞ、相手が降参するまで頑張るんだと励ましてくれ、やっとの思いで仕事をとってきた日に、相手が降参してもらった仕事だろ、53を96の両端につけて5963、ご苦労さんだ。そう言ってその日、ビールで乾杯してくれました。

今コロナ禍の影響で仕事がない毎日、死にたい気分になっていた私の気持ちはこのメモで勇気づけられました。父さんはきっと天国から「こっちにはまだコロナよ」と言うかもしれませんね。

急須を壊してしまった時のもう一つの言葉が今でも忘れられません。

「出会ったものは必ず別れる運命にある」

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