「私です!」
二か月前に亡くなった母さんの声が電話から聞こえてきたのには驚いたなあ。
一瞬、あなたが生き返ったのかと思ったほどだよ。
何気なく留守番電話のボタンを押したら、知人たちの伝言の後、藪から棒に母さんの声が聞こえて来た。
半年ほど前の留守番電話の伝言が保存されていたんだね。
「私です!」に続いて
「お父さん、そっちに行っていないかしらね?」
そう初めて言われた時には、とうとう来るものがやって来たかと思ったものだよ。
お父さんは十年前に亡くなっており、急げば数分の距離にある私の家ではなくずっと遠い所に行っているはずだよね。
「お父さんは十年前に亡くなったでしょ」
「そうかねえ。……さっき出かけたはずだけど」
そんな電話が度重なるにつれ私の対応はぞんざいなものになっていった。
「お父さんはとっくに亡くなったよ。仏壇を見てごらんよ、分かるから」
「こっちには来てないよ。そっちにお父さんの遺影があるでしょ。お父さんは亡くなったの!」ひどいことを言ったものだよ。
「そうかねえ……」
しょんぼりと電話を切る母さんの声に一瞬心が痛んだけど、同じような電話が繰り返しかかってくる度、私はつれない対応を繰り返した。
ひとりの部屋でいつ戻って来るとも分からないお父さんの帰りを待っているあなたの事を、今になって想像するとたまらない思いがするよ。
三月十八日、何度電話をかけても応答がないことに不安になって母さんのマンションを訪ねた。
あなたはリビングに倒れていた。
救急車で病院に担ぎ込んだものの、その後コロナの影響で面会が禁じられ、一か月後やっと短時間の面会が許された時、お母さんはすでに一人息子の私が誰だか分からなくなっていたね。
他人行儀に「すみませんねえ」と言われて私は言葉を失ったよ。
短時間の面会日ごとに思い出話を持ち出してみたけれど、あなたは「ああ、そうですか」と笑っているだけだった。
母さんだけが覚えており、私の記憶には残っていないごく幼い時の自分が永遠になくなってしまった。
お母さん、帰ってこなかったお父さんとは会えたでしょうね。
もしかして今度は「潔は遊びに行ったきりまだ帰ってこないけど、どこへ行ったのかしら?」とお父さんを困らせているんじゃないだろうね。
「ご心配なく。七十歳の息子はまだ元気だよ」