お父さん、あの日のこと覚えていますか。早春の日が静かに暮れようとする頃、あなたはうとうと眠っているように見えました。
「又、明日来るからね」
小さく声をかけ病室を出ようとした時、お父さんはふっと目を開け、はっきりした声で言いました。
「もう来んでいい」
私は、はっと胸をつかれ、すぐには言葉が出ませんでした。
「なんで……どうしてそんな寂しいこと言うのよ」
「お前も仕事と家のことで大変ずら。もう来んでもいいよ」
私は疲れて、何もかも捨てて逃げ出したいような日が続いていた。そんな自分が情けなくて、苦しかった。
脳梗塞で寝ついて三ヶ月。認知症が進んで、自分のいる場所も季節もわからず、お母さんがずっと前に死んだ事も忘れてしまっていたお父さん。でも私の気持ち、全部見抜いていたんだね。
私は何も言えず、お父さんの骨張った横顔をただ見つめていました。
外に出ると薄闇の中に沈丁花の香りが濃く漂い、涙があふれてきて困りました。
その日がこの世でお父さんと話した最後の日となりました。
今日は朝から雨。不思議なことに、沈丁花は雨の日に強く香るのです。そのひんやりとした甘い香りが、お父さんを思い出させます。
「もう来んでいい」
優しい声が聞こえてきます。
どんなに衰えても、お父さんの心の奥底の泉は、枯れてはいなかったのですね。
あの日からもう六年。来なくていいと言われても、もう一度お父さんに会いたい。そして伝えたいのです。
「最後まで愛してくれてありがとう」と。