母へ 70代 愛知県 第14回 金賞

どうしても聞けなかった事
菱川 町子 様 77歳

 母さん、私が六年生の時ピアノを習いたいと言いましたね。でも家にはピアノがありません。普通の親なら即座に言うでしょう。家にピアノがないのにできる訳ないだろうと。でもあなたはそんな事を一言も言わずにピアノの先生を捜しレッスンに通わせてくれました。家にピアノがなくても学校にはある。学校のピアノで練習すればいいと。なんという柔軟な発想でしょう。できないと諦める前に、どうしたらできるか考えるという事を教えてくれました。その教えのおかげで私は中学、高校と学校のピアノで練習し、教育大学音楽科に合格する事が出来ました。そして三十四年間音楽教師として勤めました。

 母さん、聞かなければいけないのに、どうしても聞けなかった事があります。言わなければいけないのにどうしても言えなかった事があります。

 私が教育大学を受験する時、ピアノを買ってくれましたね。おかげで家でたっぷり練習し、合格することができました。あのピアノのお金はどうやって工面したのですか。当時町工場で鋳物工として働いていた父の給料では、どう考えても買えないと思うのですが…… 。あの時、私は嬉しいより信じられなくてわが目を疑いました。ありがとうとも言いませんでした。きっとあなたは私の喜ぶ顔が見たかった事でしょう。でも私は怖かったのです。母さんがピアノを買うためにどれ程の苦労をしたか知る事が恐ろしかったのです。あなたはピアノを買うための苦労を私に一言も言わずにあの世に逝ってしまいました。

 母さん、ピアノを買うために何度父に頭を下げたのですか。姑にどんな嫌味を言われたんですか。噂話の好きな口さがない村の人達にどんな事を言われたんですか。あなたの苦しみから目をそらした私を許してください。そして心からの感謝の言葉を言わせてください。

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