夫へ 70代 大阪府 第9回 佳作

白いベンチで待っていてね
小森 淳子 様 72歳

 あなたの「行ってきます」の声。私は顔を洗いながら「行ってらっしゃい」と言いました。あのとき、ちゃんと顔を見て言えばよかった。

あなたはその後1時間もしないうちに、駅前でバスにはねられました。二日間、脳死状態だったあなたは、身体がずっと温かかった。「脳死」って、死んでるんじゃないんです。あなたが亡くなるまでの間、政嗣と夏子と私とでずっと傍にいました。これまでのことを三人で話しました。私たちの結婚披露宴のとき、あなたが司会者に向かって手を挙げて大きな声で「トイレに行ってきます」と言ったことを話して、三人で笑いました。子供たちと私の笑い声、聞こえてましたか?

政嗣は18歳、夏子は14歳でしたね。待合室に置いてあった腎臓の提供を呼びかけるパンフレットを見て、政嗣は「お父さんの臓器を使って貰えるなら提供しよう」と言いました。ドクターにそのことを伝えると、「事故で腎臓は使えない状態」と言われました。でもね、二人でアイバンクに登録してたでしょう? あなたの眼は、40代の女性に移植されたそうですよ。あなたの眼は、まだどこかで同じ空を見ているのかしらと思って、空を見上げることがあります。好きだったコスモスや矢車草が咲いたら、あなたも見ているのかしらと思います。

毎晩、あなたにその日一日のことを報告していますが聞こえてますか。楽しかったこと、嬉しかったことしか言わないけど、ほんとは悲しいことや辛いこともありましたよ。

あなたがいなくなってから二十五年経ちました。子供たちが結婚したとき、かわいい孫が生まれたとき(もう四人もいますよ)、一緒に喜べたらどんなにいいだろうと思いました。辛いときより、嬉しいときに傍にいてほしかった。

私はいい奥さんではなかったけれど、生まれ変わったら、今度こそいい奥さんになるので、必ず結婚してください。

いつか、そちらに行きます。約束の場所は、天国の白いアーチ型の門を入ってすぐ左にある白いベンチですよ。あなたは白いシャツを着てます。私はどんな恰好で行こうかしら。

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